<本編の登場時人物>
牧大介さん(株式会社西粟倉・森の学校 代表取締役)
1974年京都府生まれ。京都大学院能楽研究科修了。2006年地域再生マネージャーとして西粟倉村に赴任。09年株式会社西粟倉・森の学校を設立。代表取締役校長として移住者の雇用や起業支援に取り組む。
齋藤寛之さん(有限会社大橋量器)
愛知県あま市出身。愛知淑徳大学ビジネス学部卒業。学生時代のインターンシップで大橋量器と出会い、そのまま就職を決意。大橋量器は岐阜県大垣市にある創業1950年の「枡」を専門に制作する企業。社内初の営業専属社員として就職し、ローカル鉄道とタイアップした枡酒列車の全国展開や全国の催事の責任者などを担当。
<ファシリテーター>
宮城治男(NPO法人ETIC. 代表理事)
1993年より、若い世代が自ら社会に働きかけ、仕事を生み出していく起業家型リーダーの育成に取り組み、400名以上の起業家を支援。長期実践型インターンシッププログラム、社会起業塾イニシアティブ、地域における人材育成支援のチャレンジ・コミュニティ・プロジェクトを実施。全国60地域に展開。11年より東北震災復興支援も行う。
宮城:今日ご登壇いただいている方は、地域でいろんな仕事に取り組んでいらっしゃる魅力的な方々です。会場のみなさんが何かしら一歩踏み出すためのヒントとなるようなお話をいただければと思っています。さっそく牧さんから、お願いできますか。
人口2,000人の西粟倉村に、都市部から積極採用で100人以上が雇用や起業にいたる
牧:岡山県の西粟倉村で、西粟倉・森の学校という会社を経営している牧です。西粟倉村は、岡山県の北東の隅にある人口約2,000人の小さな村ですが、2008年以降に西粟倉で頑張る経営者たちが都市部からの採用に取り組みはじめた結果、これまでに100人以上が移住してきました。移住者が関連する事業の売上は、総額で7億円を超えています。
西粟倉にやってくる人たちは元気な若者が多く、彼らは上手にお嫁さんをつかまえるので、待機児童が出るくらい子どもが増えています。となり村は去年生まれた子どもはゼロでしたが、西粟倉村では18人。こういうことが岡山県の小さな村でおこっています。
こうした動きのはじまりは、私も役員をつとめる木の里工房木燻という会社です。外からの採用に取り組み、事業を成長させました。これをみた地域の人たちは「地縁・血縁に頼らなくても、採用できるんだ」と気づいたのです。これをもっと進めていこうということで、「まちの人事部」をつくりました。これは役場の方や地域の商工業者からなる協議会で、西粟倉・森の学校の前身となる組織です。
これまで、色んな採用活動をやってきました。例えば、西粟倉村では研修ツアーを開催しています。そこにやってきた神奈川県庁の若手女性職員は村役場に転職しました。林業が大好きな東京の男性とは、クリスマスに男二人でご飯を食べに行って口説きました。そうやって、とにかくこの人だと思ったら、全力で来てほしい、ということを伝えるのです。東京の彼はマンションに住んでいた経験を活かして、賃貸住宅向けの取り外し可能な床板という、これまでなかった市場を見出して、今では年間7,8千万円売り上げる事業を経営しています。
こういった人材がどんどん西粟倉村にやってくるのですが、住む家が足りないという問題がありました。地縁・血縁のない人たちが移住する際には、住居や育てなど、仕事以外のことが課題になります。私たちは木材加工の仕事をしていますので、彼らのための家を建てる事業も始めました。どんなふうに暮らしたいとか、小さな赤ちゃんがいるとか、いろいろ打ち合わせしながら、うちで設計して家を建て、棟上げの時には「こんな人が住みますので、よろしくおねがいしますね」と地域の人に紹介します。住む場所と地域にうまくはいっていく配慮を心がけています。
(若い移住者を受け入れる仕組みを地域ぐるみで整えるからこそ、口コミで移住希望者が増加していく)
宮城:ありがとうございます。続いて有限会社大橋量器の斎藤さんにお話いただきたいと思います。
インターンシップを経て、地場の伝統産業に新卒入社
斎藤:大橋量器から来ました斎藤です。私は新卒でこの会社に就職しまして、今年で2年目です。愛知県出身で、今は岐阜県大垣市で暮らしつつ働いています。明治の中頃に枡づくりが始まった大垣市は、いまでは全国の八割を担う日本一の産地となっています。とはいえ昔のようにお米を枡で量りませんから需要が減少し、いまでは枡を製造する会社は5社と最盛期の11社の半分以下となってしまいました。
それでも弊社の代表は枡を今後もつかってもらいたいということで、三角や五角の枡をつくったり加湿器をつくったりと色んな工夫を重ねています。また国内だけでなく海外にも枡の魅力を伝えていこうと、ニューヨークやシンガポール、今年はドイツやパリにも出展しPRに努めています。
今日は、なぜ新卒で枡屋に就職したのか、ということをお話したいと思います。色んな方に「どうして枡屋さん就職したのか」と聞かれるのですが、きっかけは大学三年生の時に参加した7ヶ月間のインターンシップでした。正直なところ、枡にそれほど馴染みがあったわけではないのですが、地域の中小企業で働いてみたいなと思ってインターンシップに参加してみたんです。
インターンシップに参加した当初、社長に言われたのが、「斎藤君は僕の右腕として、営業の幹部になってほしい」ということでした。大橋量器には20名弱の従業員がいますが、僕が入るまでは営業に携わっているのは社長ひとりだったんです。
こうして営業に携わることになったのですが、正直ダメダメな感じでして、なかなか成果がでませんでした。実はインターン中にもこのビッグサイトに来ることがありました。その時は商談をしに展示会に参加したのですが、僕は緊張しすぎて商品も何も持たずに行ってしまったんです。これはやばいと震えながらの商談になってしまい、やはりうまくいきませんでした。
そのとき悔しくて、泣きながら社長に電話したのを覚えています。僕に任せてくれた社長にも、社員にもすごく申し訳ないと思いました。そこから仕事に取り組む姿勢が変わった気がしますね。会社のために自分に何ができるだろう、と常に考えて動くようになりました。
7ヶ月の終盤には手応えがでてきて、仕事が途中で終わってしまうのが寂しかったです。もっと深く関わっていけば、きっとこの会社を変えていけると思って。そのとき社長に「うちに来ないか」と誘っていただいたんです。大橋量器は地場の中小零細企業で、若い人はそうそう入ってきません。「いい会社だから誰かが入るといいな」でなく、自分がはいってこの会社をよくしていこうと思って、就職を決めました。
宮城:おそらく地域で普通に求人をかけても、斎藤さんのような若者を採用することは難しかっただろうと思います。ところがインターンシップというご縁がふたりをつなぎ、社長の男気に感じ入るところもあって、これはやるしかない、ということになった。地域の中小企業がいままで通りの看板で「うちに就職しませんか」と人材を待つのではなく、新しいことを仕掛けていくから、その担い手が集まって事業がうまれるのですね。その流れをどう作るかが大切だと感じました。続いて水産業にIターンで就職した小林さんにお話をうかがいたいと思います。
(後編に続きます。)