株式会社上勝開拓団 仁木啓介氏
-仁木さんと上勝の出会いについて教えてください。
上勝を訪れたのは、今から7年前。取材で訪れたことがきっかけです。
当時、東京の映像会社でテレビ番組の制作などを行っていたのですが、上勝町の2020年までに焼却・埋め立てごみをゼロにしようとするゼロ・ウェイスト政策の取材を担当したんです。
その団体のリーダーは町に移住してきた若い女性。
「ごみをゼロにするなんて無理だろう・・・」
私は最初、そんな気持ちで取材をしていました。
しかし、そのリーダーの周囲には多数のサポートする仲間がおり、また町民の真剣な想いや行動力を目の当たりにして、
「不可能かどうかは、やってみなければ分からない」
そう思ったんです。そして、いつしか自分自身もその活動にどんどん心を奪われて行きました。
その取材を通して、まるで学生時代のような純粋に楽しくいられるたくさんの友達ができ、
その後も時間をつくっては上勝町に遊びに行くようになりました。
次第に分かってきたのは、町に移住してきた若者たちは、この町で生まれ育ち、土地と共に暮らしてきたおじいちゃんやおばあちゃんに惹かれて移住してきているということ。そして、そのおじいちゃんやおばあちゃんが、移住してきた若者をとても大切にしているということ。
そんな地元の人々の暮らしと若者の交流を描きたいとNHKに企画を出し、ドキュメンタリー「笑うキミにはフクきたる」をつくることになりました。
主人公は上勝町で生まれ育った二人のおばあちゃん。
畑を耕し、木を切り、鶏を飼い、餅やこんにゃくをつくる。
昔ながらの暮らしには大地と共に生きているという確かな実感がありました。
そして、どんなに過疎化が進もうと決して諦めない、そんな粘り強さがありました。
上勝町に家を借り、密着取材をしていたのですが、その頃から新たな移住者が増え始めました。
その移住者たちの中には上勝町で“起業”をする人が何人かいました。そして、全国の過疎地に目を向けると同じように“起業”する若者たちが沢山いることに気づきました。
「今、地方で何かが起こり始めている。上勝町でもこれから何かが起こる」
僕はそんな予感を感じたんです。取材を終えたら東京に戻るはずだったのですが、その“何か”が知りたくて上勝町に残ることにしました。
-外から「プレイヤーを紹介する」立場だったのが、ご自身がプレイヤーとして町に残られることになったのですね。移住されてみて、「地方の可能性」はどんなものだとお感じになりますか?
地元の人の目線に立つと、あることに気づいたんです。
それは口だけの人があまりにも多いこと。
「上勝町でこんなことしたらもっと人が集まるよ」
「こんなことをしたら儲かるのに」
自分自身も東京で暮らしていた時は同じように考えていました。でも、上勝町で暮らすようになって、「そうかも知れないけど、誰がやるんだ?」という現実を知ったのです。
わずか1700人程度、町の機能を維持するために、町民はいくつもの仕事や役職を掛け持ちしています。草刈りや清掃などの活動も町民の奉仕活動です。新しいことを始めようにも人手がないのです。
「そんなことを言うなら、お前がやってくれ」
それが、過疎の町で暮らしてみた実感でした。でも、発想を変えれば、
「やりたいことが出来る。過疎地には都会に無い可能性がある」
ということにも思えました。
そして、昨年地方で起業した人々を取材し、番組をつくる中でそれは確信に変わりました。地方に移住し、起業する人の中には、時代の閉塞感を打ち破り、地方だけでなく新しい時代の扉を自分でこじ開けようとする人が沢山いるのです。
新たな時代への変革期、この変革が上手く行くかどうかは分かりません。上手く行くかどうかは追随する人がどれだけ増えるか次第だと感じました。
私も彼らと共に時代の扉をこじ開けたいと思い、上勝町で上勝開拓団という映像制作会社を起業しました。
私の舞台は映像制作。東京でテレビ番組制作をしていた時も、常に新しい物をつくりたいと考えていましたが、テレビという枠の中ではほとんどが遣り尽くされたことです。
しかし、地方に軸足を置いてみると、
「地方から世界への情報発信」
「地方が連携した映像発信のプラットホーム」
まだまだ新しい分野は山ほどあります。
きっと苦労や苦しみの連続だと思います。上手く行く確信なんて何もありません。でも、
「新しい時代を切り拓く」
そんな仕事ができたら、これ以上エキサイティングなことはありません。今、地方そして過疎地は、そんな可能性に満ちた場所だと思っています。
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